テストェ・・・
なんでこんなときにこっちのやる気が出てくるの
各地で上がった炎が、町を飲み込む津波となっている。
あちらこちらで火花が飛び交い、火の粉が舞って、空気の弾ける音を鳴らしている。武器と武器が交じり合う、甲高い音もする。
爆炎が短い間隔で、しかもその距離を縮めながら上がり、迫ってくる。
気合を入れる声と、苦悶に叫ぶ声、そして人間のものではない咆哮が、炎の嵐の巻き上げる音の中に乗せられて、四方八方へと拡散していく。
目にその姿を飛び込ませるのは、倒壊したいくつもの建物と、今も傍で暴れ狂う巨大な熱の怪物。そしていくつもの……。
一人は腹に巨大な爪を突き刺され鎧もろとも貫かれ、一人は首をもぎ取られ、そして一人は四肢を潰され臓器を噛み砕かれ……。
見ると、人の形をした黒い何かも見られた。
その情景は、もはや今更言葉にするまでもあるまい。これは戦だ。
童心にはそのことを理解せずとも、自分がとてつもなく危ない場所にいると言うことだけは分かる。だが、幼い身体で逃げることも叶わず、また幼い心はその光景を見て泣くことしか許さなかった。
母親の手に引かれながら、少年はその悲惨な光景から目を逸らす。しかし、逸らしても逸らしても、目の前に広がる光景が変わることはない。ただ赤と黒の鮮烈で苛烈な色調の世界の中に、少年はいた。
少年とその母親は、戦場となったこの町から避難する途中だった。有事の際には、男は自ら戦場に立ち町を守るために戦い、女子供は各地に用意された避難所へ避難するという取り決めになっていた。彼らは近所の人々と共に避難所へと向かっているところだった。
彼ら避難民たちの先頭に立ち、彼らを導いているのが少年の母親。その補佐にもう一組の親子。少年はそれに連れられているだけだった。
避難の道筋は、国が取り決めたものと、町民たちが独自に決めたものとの二通りある。最初は国が取り決めた避難経路を使っていたが、そこには敵――妖怪と男たちがいて、彼らは戦っていた。
妖怪。少年の聞き及んでいたところによれば、それは敵だ。恐るべき力と恐るべき姿で人を惑わし食らい尽くす、滅びの使い。滅ぼさなければならない、穢れの存在だとも聞いている。
最初、「妖怪」だなんて聞いて、何も思うことはなかった。だが今は、ただただ怖い。目に焼き付けられたこの世のものとは思えない姿が、少年の心を鷲掴みにして砕きそうなほどだ。実際にその力の矛先が自分に向いたわけでもないのに、自分にそのぎらぎらした目を向けたわけでもないのに、後姿だけで少年は立ちすくんで動けなくなってしまった。
怖い夢を見ているんだ……。そう思いたい頭に伝わってくるのは、足の痛み。そして、辺りに広がる高熱の海。とても夢を見ていると考えることなどできないくらい、現実はすぐ傍にあった。
赤に包まれた世界をじりじりと歩き、脅威がないと確認した母親は避難民たちを連れてその場を駆け出した。少年は母に誘われて走る。
「しっかりしろよ、お前」
共に行動していた子供が言う。その子供は母親の手を引きながら走っている。少年にその行動の真意が理解できないわけではない。
「お前が母ちゃんを守らないでどうすんだよ。男だろ、泣くなバカ!」
そう言う子供の瞳には、目の前の炎しか映ってはいない。ただ、その真剣な顔には鬼気迫るものがあった。
それで少年の心が動くかと言えば、そうでもないのだが。
現実から逃げたがっている少年の心中を察したのか、少年は舌打ちした。
「これが武士の息子かよ。信じらんねえ」
そう言われても、少年に波風は立たない。既に負の方向に揺さぶられているからだ。
不意に、母の動きが止まった。それに釣られて、避難民たちや親子の動きも止まる。少年は母親の顔を見上げるが、彼女は周りの様子を用心深く確認しているようだった。彼女の少年に対する返事は無かった。
そこは、避難場所のひとつであったお堂。というより、お堂であるはずの場所だ。今のその場所は、焼け跡となっている。幾つもの人の形をした何かがあちらこちらに散らばっていた。折れた刀や槍などが散乱していることや、地面に爪跡のようなものや抉れた箇所が見受けられることからも、ここが戦場になったことは少年の目から見ても明らかであった。
「ひどい……。ここも全滅……」
少年の母親はそう呟いて俯く。少年はただ目の前の光景に息を呑みすすり泣くばかり。
今までで、訪れた避難所は三箇所。そのいずれもが戦場となっている。少年には、それがどういうことを指し示しているのか、理解できなかった。
「まずいわね。私たちの中に、戦える人はいない。もし敵が残っていたら……」
その言葉の先を母親は出さなかったが、その先の言葉は少年にも理解できた。
全滅。その二文字。誰も知らないことじゃない。恐らくは、その場にいる全員が理解しきっている。誰も言葉にして出さないだけ。
こんなとき、必要とされるのは団結。そんなことは少年でも理解できるほどだったが、行く先々で予想を裏切り、終わりの見えない逃走劇を続ける中で、そんなことなどとてもする気になれなかった。これもまた、言葉にしないだけでみんなが思っているだろう。
「一体いつまで逃げればいいの?」
「あなたの行く道全部こうなってるじゃない!」
「あなた妖怪の手下でしょ!」
避難民たちは、いつしかそう喚き出す。
ああ、もう限界か。そう思わせるのには、十分なほどだった。
「待てよ! この人がいなかったら、お前たち全員殺されてたんだぞ!」
一緒に母親の補佐をしていた子供が声を張り上げる。だが、その言葉には耳を貸さないのが、避難民たちだった。
「だからどうしたって言うのよ。結局避難できてないじゃない」
避難民の一人が喚く。極限状態に追い込まれた心と身体が、言い表せない苛立ちを産み出しているのだろう。
だが、それはだれも同じだった。少年でさえ、怖さの裏に怒りを隠していた。だが、それを出す、そんな余裕も無かった。
避難民は更に騒ぎ立てる。徐々に徐々に抑えの効かなくなってくる彼らを前に、母はただ佇むだけだった。
「うるせえ! お前ら何もしてねえクセにウダウダ言ってるんじゃねえよ!」
子供は溜まりかねて、避難民たちに怒鳴りつける。
「今この人がどんな思いでお前たちを連れて逃げてるのか、お前たちにわかんのかよ。お前たちは人の考えもわかんねえのか。大体、ここでグダグダ喋ってるわけにもいかねえんだよ。
生き残りたいならお前ら、文句言わずについてくりゃいいんだ。ついてこれないならお前らだけで逃げるんだな。ただしお前らがどうなっても、俺らは知らねえからな。恨むなよ、お前たちが――」
「もういいのよ」
子供の言葉を遮ったのは、今まで黙っていた母。その雰囲気は、深刻だった。その声には、先ほどまであった生気がまるで感じられない。
母の視線を辿ってみると、そこには巨人がいた。
鬼だ。
「もう逃げられないから」
鬼は薙刀を片手で振るい、避難民のうち数人の首を一瞬にして刎ねた。
飛散する鮮血、拡散する悲鳴。そして、赤い雨が降る。
「ひっ……」
これには子供も声を失ったようであった。腰さえ抜かしていた。対して少年は、というと、腰を抜かすことさえできなかった。
その悍ましい黒の中で、赤い光が二つあった。女子供というのは鬼に狙われやすいもので、その意味では少年は恰好の獲物だった。
一歩一歩、巨大な足が近づいてくる。人間には持てないであろう巨大な薙刀を携えて。
少年は一歩も動けない。目を見開いて大きな角の生えた姿を見つめていた。
「フレイっ!」
母親が飛び出す。少年は母親もろとも横へ飛ぶ。その直後、薙刀が先ほどまで少年のいた場所に叩き付けられ、瓦礫が舞う。
少年は助かった。だが、共にいた子供はその一撃でその姿を裂かれてしまった。真っ二つ、そう言うこともできないほど不器用な切り口だった。
鬼がこちらを見つめている。少年は短く嗚咽を漏らす。そして、近くにいた母親に救いを求めようとするが……。
「母さん、母さん……?」
母親は反応しない。彼女の頭からは血が出ていた。少年は声にならない声を出した。なんて情けないんだ。なんて力のないやつなんだ。
頭の中で強く力を願っても、それは力とはならない。怒りが体の中で巡るだけ。
「ッ畜生、畜生!」
絶対に、このまま死んでたまるか!
ありったけの怒りを込めて、少年は言葉を紡ぎ始める。
「我、誓いを立てるもの……!」
少年の口から紡がれるのは、古代の言葉。心の中に感じたものを形にする、妖の術。
「偉大なるものへ贄を捧ぐ……!」
少年の手のひらに、小さな炎が生まれる。周りの空気を取り込んで、それは勢いを保っている。
鬼は動かずにこちらを見つめている。
『燃えろ!』
少年の炎が鬼に向かって飛ぶ。鬼はそれを避けようともしない。
命中。だが、鬼の表情に変化は無い。状況は変わらない。それどころか、以前にも増して邪悪ではないか。
はじめて苦境に立ち向かった少年の試みは徒労に終わった。
少年は地面に拳を打ち付ける。
「畜生……」
不意に、その瞬間まで忘れていた恐怖が蘇った。
ゆっくりと近づく死の怪物を受け入れるしかない。そういう諦めをも感じていた。ここまで来れば、死に対しては恐怖を感じなかった。
薙刀が空に掲げられる。宙に軌跡を描いて、刃は振り下ろされる。
殺される。
そう思って数秒。いや、たった一瞬の間だったのかもしれない。少年はその時間のことが記憶にない。
ただ、いつの間にか薙刀が何かに受け止められていたという事実だけがそこにあった。
人の形をした何かが、薙刀を受け止めている。同じように薙刀を携えて。
大きさは大人の人間と同じくらいだった。ただ、その頭には大きな角がある。その人影もまた鬼だった。その「小さな」鬼の羽織には、槍の意匠に「三」の文字が描かれていた。大分汚れてはいたものの、確かにそれと判別できた。
小さな鬼の顔はよく見えなかったものの、漆黒の衣を纏ったその姿が印象的だった。
何が起こっているのかよくわからない。だが、この小さな鬼が自分と大きな鬼との間に立ち、攻撃を受け止めたということだけはわかる。
結果から言えば、この小さな鬼は……少年と母親を助けた。
「俺の縄張りで何してくれてんだ、え?」
小さな鬼が言った。鬼には似つかわしくない、若々しい声だった。
「てめえら西妖怪の来るところじゃねえんだよ。さっさと失せろ下衆が」
「ふん、すると貴様は東のものか。貴様こそ人間に与するとは愚かな輩よ」
対する大きな鬼の声は、見た目に違わぬしわがれた、腹に重みを感じさせる声だった。
「てめえだってもとはその人間だろうが。何をいまさら言ってんだ」
「そんな昔は忘れたわ!」
言葉とともに、大きな鬼は小さな鬼の薙刀を振り払った。両者は距離を開ける。再び薙刀を構え、両者はにらみ合いを始めた。
「何のために都を襲う」
小さな鬼は問いかけた。
「教えると思うのか、わらわが?」
大きな鬼は鼻で笑った。
それに対して小さな鬼は鼻で笑い返してみせた。
「大体の予想はつくぜ」
「調子に乗るなよ、小僧」
「てめえこそ、あんまり見下してるとどてっ腹に風穴空くぜ」
「それは貴様のほうだ、愚か者が!」
大きな鬼が突進を始めた……と思った矢先。
金属音が辺りを包む爆炎の音に打ち勝って、辺りに響く。直後には何かが軟らかいものを貫いた音がした。
大きな鬼の薙刀が真っ二つにされ、小さな鬼の薙刀が大きな鬼の胴体を深く貫いているのだ。
いくつかの瞬間の間、周りの音は炎の上がる音と遠くで響く金属音のみになった。
「遅すぎるんだよ、てめえ」
「おのれ、こんな輩ごときに……」
「捨て台詞は生き残るときに使うんだな」
薙刀が刺さったままの大きな鬼を、小さな鬼は蹴り飛ばした。薙刀は乱暴に抜け、傷口から血が噴き出す。小さな鬼は倒れこんだ大きな鬼に向けて、何度も薙刀を振り下ろしていく。
大きな鬼はもう動かない。
「さてと」
小さな鬼は少年の傍に寄り、しゃがみ込む。少年と目線を合わせた後、少年のすぐ横にいた母親に目を向ける。
少年は小さな鬼の表情を見る。
一見、人間の男と見間違うような顔をしている。違うところと言えば、頭に角が生えているくらいのもので、角さえ隠せば人間と変わらないだろう。
手に持った薙刀は、槍だった。遠目には薙刀に見えたが、薙刀よりは反っていない。かといって槍ほど穂先が短いわけでもない。少年はそれを何と呼べばいいのかわからなかったが、とりあえず槍と呼ぶことにした。
その「ほぼ人間」である小さな鬼は、少年の母親をただ見ていた。少年には何故この鬼がそんなことをするのか、理解できなかった。
「お前はこの女の息子か?」
小さな鬼が少年に聞いてきた。別のことに思案を巡らせていたせいか、一瞬だけ少年の反応が遅れた。
「え、うん。そうだけど……」
鬼の瞳が、少しだけ揺れた気がした。
「そうか」
短く答えて、鬼は立ち上がった。そして、辺りを見渡す。
勘が鋭くなっているのだろうか、そこまでされたら、少年にさえ状況が把握できた。
囲まれている。それも多くの妖怪に。
「有象無象どもが何しに来た。無駄に死ぬだけだぞ」
無数の眼光は鬼に殺到する。
その中で、一つ、また一つと妖怪たちはその身体を炎に包んでいく。
『光れ刃よ、唸れ炎よ!』
炎が円を描いて妖怪たちを「切り刻んで」いく。刃となり得ないはずの炎が、高熱の風を纏って鬼の周りを踊り狂う。
少年は今まで知らなかった現実を目の前にして、ただ一言だけ呟いた。
「槍……」
それは、武器の名。
薙げば薙刀、打てば棒、斬れば刀。突く以外に様々な用法を持った、人類最初の武器。人はそれを手にして初めて知恵を得た。
その存在を知り、人はその可能性を広げてきた。
その名。
「僕も……あんな風に……」
少年の瞳は、炎と激しく踊る鬼しか見えていなかった。
怒りや怖さを超えて、少年の心には一つの想いが生まれていた。
いつか、自分も強くなるのだ、と。
[2回]
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