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支離滅裂なことを書いてるただの自己満足ぶろぐ。 中の人は基本痛いです
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特研的なもの。とりあえずこれで5分はいけるかな。


・概要
 イングランド国教会とは、イングランドのキリスト教会のことである。発祥はブリテン島にキリスト教が伝来した当初にさかのぼるが、厳密には、宗教改革以降カトリック教会から分離して、同地の国境とされた教派をさす。英国国教会、イギリス国教会、アングリカン・チャーチなどとも言う。
 またこの教会は聖公会(アングリカン・コミュニオン)のうち最初に成立し、その母体となった教会でもある。尚、「聖公会」という名称は、アングリカン・コミュニオン全体の日本語訳であるとともに、イングランド国外におけるイングランド国教会の姉妹教会の名称の日本語訳でもある。
 イングランドの統治者が教会の首長(Defender of the Faith, 直訳は『信仰の擁護者』)であるということが最大の特徴。

・キリスト教の伝来
 ブリテン島にキリスト教が始めて到来したのは、ローマ帝国時代の紀元200年ごろのことであると考えられており、スコットランドやアイルランドにも根を下ろしていたが、キリスト教の歴史の中では、正式なイングランドの宣教はカンタベリーのアウグスティヌスによるものが最初であるとされている。

・国教の成立
 イングランド国教会は、16世紀にローマ教皇庁から独立した。
 事の発端はイングランド国王、ヘンリー8世の離婚問題がこじれたことにある。妻キャサリン・オブ・アラゴンとの仲は結婚当初は良かったものの、習慣性の流産により王子を出産することは無かった。そのことに苛立ったヘンリー8世はキャサリンと離婚し、愛人であるアン・ブーリンと結婚しようとする。しかしローマ教皇は離婚を認めなかった。このことは神聖ローマ皇帝カール5世の思惑も絡んだ、複雑な政治問題であった。ヘンリ8世はキャサリンとの離婚を成立させるため、様々な法令を出した。1533年の教皇上訴禁止法や、1534年の首長令などがその例である。これによりイングランドの教会のトップに君臨したヘンリー8世はアン・ブーリンと結婚する。教皇クレメンス7世はヘンリー8世を破門し、両者の分裂は決定的となった。
 これが初期のイングランド国教会の成り立ちであるが、ローマ教会と訣別したことにより大陸のプロテスタント運動がイングランドに流入した。ヘンリー8世自身はカトリックであったが、息子エドワード6世の時代にはプロテスタント的な信仰の確立が目指された。
 エドワード6世の死後、キャサリンの娘メアリー1世が王位に就く。彼女はヘンリー8生徒エドワード6世の時代に行われた典礼の改革をすべて廃し、再びイングランドをカトリックに戻そうとした。これに反対するものは徹底的に弾圧され、処刑されたため、目あり1世は「ブラッディ・メアリー」と呼ばれたことで知られる。メアリー1世の死後、カトリックへの強制的な復帰運動は消えた。
 その後、エリザベス1世が即位。彼女の選んだ道は「中道」(Via Media)と呼ばれるもので、イングランドに混在するプロテスタントとカトリックがお互いを否定し排除することなく、共存できる道を選んだ現実的な政策であった。今日でも、エリザベス女王を首長とする英国国教会は、カトリックとプロテスタントの間を行く中道路線を歩んでいる。

 このころから、イングランドにおける清教徒(ピューリタン)と国教会派の対立が深刻化。ジェームズ1世はピューリタンなどの非国教徒を迫害。彼らは自由を求めて1620年、メイ・フラワー号でアメリカ大陸に移住することとなる。
 チャールズ1世の時代にはピューリタン革命が勃発する。国王チャールズ1世は処刑され、共和制となった。クロムウェルは1658年に亡くなったが、その息子が無能だったために、1660年、チャールズ2世が即位して王政復古が起こる。1689年に名誉革命が起こり、非国教会派は自由を獲得する。国教会も存続したが、非国教会も独立の宗教団体として認められた。

 余談はあるが、ヘンリー8世の最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンは生涯ヘンリー8世を愛したと伝えられている。彼女はよく夫を支え、ヘンリーがフランスに遠征中の1513年9月、スコットランドからの侵略を食い止めた。キャサリンの派遣した英国郡は、9月9日のフロッドンの会戦においてスコットランド軍に圧勝、敵王ジェームス4世を討ち取ると言う快挙を果たした。
 しかし国際的状況は彼女にとって不利に動いていた。スペインとの同盟は破棄、今まで敵国であったフランスと講和が結ばれた。そのころヘンリー8世はアン・ブーリンとの結婚を望んだため、キャサリンが王子を産まなかったことを理由に離婚を切り出した。1533年5月23日、カンタベリー主教クランマーによって、キャサリンとヘンリー8世の結婚は無効であった、と宣言され、翌年11月、彼女は王妃の称号を剥奪され、以降公式には「アーサー皇太子未亡人」と呼ばれることになる。
 キャサリンは、アンが日の出の勢いで王妃への道を邁進しているころ、宮中から追放され、アントヒルに監禁される。その後1534年5月、キムボルトン城へと移送された。
 1536年1月7日、最期まで側にいた侍女マリア・デ・サリナスの腕の中で息を引き取った。死因は病死なのか、それともアン・ブーリンとヘンリー8世による毒殺なのかはっきりとはしない。
 彼女は日増しに衰弱していく中、死を予見し、どんな仕打ちを受けても最期まで愛しぬいたヘンリー8世に、遺言ともいえる手紙をしたためていた。
 彼女の遺体は、キムボルトンから40キロ離れたピーターバラ聖堂に葬られた。その葬列には、ヘンリー8世に禁じられていたにもかかわらず、一般市民500人が参列し、キャサリンへの経緯と哀悼をささげたと言う。

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